2020年4月21日火曜日

多様性の喪失、ZOOMデスマーチ、ラッダイト主義

言葉が駆け巡って眠れないので起きてメモしておく。
遠隔授業への対応として、どういうわけか誰も使ったことのないツールだけがクローズアップされて、どういうわけか365さえ排除されているのはやはりおかしい。もっと多様なやり方が山ほどあるのに。
これは要するに単位制度を学修時間で管理する発想の延長線上にある判断である。
じつは成果物で評価する方法もあるはずなのに、なぜかそういう議論にならない。成果物で評価するさいには、それを作成する学生の作業時間を学修時間に換算する。ここは教員の裁量による。
今回、遅れに遅れて提示された本学教務部の通知によると、ケースマとZOOM以外は自己責任でやれということになっている。
懸念がたくさんある。
1つは多様性の喪失。ZOOMデスマーチにならなければいいが。これはあとで述べる。
もう1つはラッダイト主義の台頭である。これは科学社会学などの用語で、歴史的なラッダイト運動に引っ掛けてイノベーションへの感情的反発を指している。つまりイノベーション創出の反対がラッダイト主義なのである。
今回のムーブメントはすでにラッダイト主義を召喚している。危機管理の一環としての強制的な技術導入だからである。一種のショックドクトリンになっている。
ラッダイト主義はたんにローテクオヤジのイデオロギーではない。むしろ地に足をつけて働いてきた熟練労働者の思想である。ショックドクトリンは危機的状況に乗じてこの人たちの成功体験と権威を打ち砕く。
そして大学教員とはまさにこのような人たちである。この人たちに左足で板書せよと言うようなものなのである。
ゆえに、技術導入から発想するのはまちがいである。
物理的に集合できない現在の環境において既存の知識体系をどのようなメディアに乗せていくかから考える必要がある。メディアは知的可能性も開くが、強く内容を規制するものでもある。問題なのは規制の方だ。
得意な料理を新しい弁当箱に詰める。しかし弁当箱を選ぶことから始めないと、それは一種の強制力・権力行使になってしまう。
これは組織としての選択でもあるが、ひとりひとりの教員が選択することでもあり、学生が選択することでもある。必要なのはバッケージではなく選択肢である。他の選択肢を明確にしないまま、ひとつのパッケージだけを推奨するのはたんに管理上の手間の節約にすぎない。大事なのは管理上の手間の節約ではなく、教員と学生の手間の節約の方であり、こちらの方の総量は管理者の手間の総量よりはるかに多いはずだ。つまり優先順位が転倒している。
ラッダイト主義は学生にもある。自前のパソコンを持たない人のほうが圧倒的多数である。実際、たいていのことはスマホでできる。Wi-Fiがあるとは限らない。このまさに危機的状況の中でパソコン環境を整えよというのは危機的状況に平時の発想を持ち込むことである。そこに気が付かないと。マスクがなければ自分で作るとか、そもそも外に出ないというのも有力な選択肢であるはず。
それを自己責任で勝手にやるならやればいいというのは、完全に事故誘発的な発想である。寛容なのではない。放置である。自己責任と言うのは、正確には「事故が起きればその教員は処分される」ということである。
それが危機的状況における的確な判断といえるだろうか。それは平時の発想であり、幾分かは業界のヘゲモニー争いの1分岐にすぎない。
教員にも学生にも選択肢が明確でなければならない。そうでないと、教員のサボタージュや学生による学費返還運動や感情的な紛争がモグラたたきのように生じる。闘争心のない弱い心の人たちで構成されるキャンパスであれば大量留年が生じかねない。これが私の懸念するZOOMデスマーチである。
単一性はリスクがある。むしろ多様性を確保するほうが組織や集団としての生存戦略として優れている。教員と学生の多様性を認めること、何よりも知識の多様性を認識すること。それをちゃんとサポートし続けること。そのためには集中管理方式ではなく分散的なネットワーキングを組織内に作る必要がある。順番をまちがえるな。スタートラインを忘れるべきではない。

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